越津ネギとモズ君 [菜園]
昨日はN先生と飲みすぎたので、今朝はゆっくりして、午後から第二菜園へ。ネギが甘く甘くなって絶妙の収穫期。あれ?何だか視線を感じるぞ!
あ!やっぱり!でも、こないだとは違う個体で、やや痩せている。
早速、ネギを掘ったあとに着地して、ミミズを掘りだしていた。本音を言えば、ミミズは土を耕すので食べて欲しくはないのだけれど、痩せたモズ君(メス)のために、特別に許しましょう。
まだ人に慣れていないのか、近づくと飛び去ってしまった。まあ、変に慣れると事故に遭うかも知れないので、これくらいの警戒心は大切でしょ。
オオカブはトウ立ちする前にすべて収穫。ニンジンやネギはまだしばらく続きそう。
ソラマメは絶好調!楽しみ楽しみ。
ブロッコリーの側枝蕾が出てきた。これも甘くておいしい。
ロマネスコが手のひらより大きくなった。もう収穫しなくては、と思っていたら、また何か視線を感じる。
やっぱりお前か。物欲しそうな目で見られると、ついつい「しょうがないな」と、予定外の作業をしてしまうことに。
だって、こんな眼でこちらを見るんだもの。ミミズでも探してやるか、という気になりますよ。
一眼レフではなくコンパクトカメラでこんな写真が取れる距離をご想像ください。土の上のミミズにまっしぐら。
というわけで、モズ君が餌採りしている間に私は収穫の続きを。やはりロマネスコは片手に余るくらいの大きさだが、サクサクとして甘そうな感じ。
実にフラクタル。
では、モズ君、また来週。それまで元気でね!
「テンプレート」を脱ぎ捨てて [雑感]
この土曜日は、静岡県東部の某高校のN先生が名古屋にいらして、年末に続いて3月に行う講義の打ち合わせ。今度は特別に110分も用意してくれるので、思う存分教えることができる。
打ち合わせといっても、お互い「鉄分」と「アルコール濃度」が高いので、「リニア鉄道館」→「大岡屋はなれ」というコース。鉄道談義や酒談議をしながら、教育の話に花が咲いた。
これまでの教育や医療は、教育内容や医療知識といった「情報」を教員や医師が独占していたので、学生や患者に対して「テンプレート通りの対応」をしていれば、ほぼ間違いがなかった。大半の学生や患者も、テンプレート通りの対話によって当たり障りなく過ごすことを望んでおり、例外を外れる先生はかえって警戒されたり、疎まれた。それは「教育」や「医療」に名を借りた「ロールプレイ」に過ぎず、コミュニケーションとは程遠いものであり、そのことに我々は、大いに不満を感じていた。
ところが、情報ツールの急速な発達によって、「情報」はもはや教員や医師の独占物ではなくなった。学生や患者は、教員や医師と同等に「情報」にアクセスできるようになった。例えて言えば、「魚の釣り方」を教えるのに、これまでは先生が大きな魚を釣ってみせて、「ほら!こんな風にしたら釣れるぞ!お前もこれを真似してみろ!」と言ってテンプレートを示していればよかったのが、これからは、学生のほうが先生より大きな魚を釣ってきたり、「先生が知らない釣りの方法」を探してしてくることができるようになったのだ。
これまでのような「テンプレート通りの教育」に拘泥する先生は、それを脅威と感じ、「権威の失墜」を防ぐために、権威をカサにますます自分のやり方を押し付け、それについてこようとしない学生や患者を「理解力が劣化した」といって否定する。あるいは、慇懃無礼な「お客様扱い」によって、彼らの感じる疑問を表に出せない雰囲気を作る。
それは、これまでの教育や医療がテンプレートに沿った「ロールプレイ」に過ぎなかったことを、見事に顕著化するものだ。テンプレートの否定は、これまで気づいていながら解決を先送りにしてきたコミュニケーション不全の問題を赤裸々にしてしまい、当事者はそれと向き合うことになるのだ。
これからの教育や医療は、学生や患者の知識レベルに応じた疑問点を、教員や医師が一緒に考え、解決してゆくという仕事になる。つまり、ニセモノや毒魚を見抜く方法を教えつつ、簡単に釣れる魚とそうではない魚がいることや、自分の目的とする魚を決め、それをどうやって釣るのかを、学生や患者と一緒に考え、それが出来るようにサポートするのだ。それは、「コミュニケーション」そのものであり、「テンプレート教育」「テンプレート医療」よりも遥かに“やり甲斐”のある仕事だと私は思う。
そんなわけで、私と一回りも年が違う先生を出来る限り支援したいし、彼がのびのびと教育と打ち込めるといいなぁと思うのだ。

ちなみに、リニア鉄道館にはC62 17がいる。17号機は1954(昭和29)年の木曽川橋梁強度試験の際、単機(列車を引かず、単独で走行すること)で時速129kmを記録し、日本ではこれが「狭軌の鉄道の蒸気機関車の世界記録」とされている。そこには「狭軌(線路幅が世界標準の1435mmよりも狭いこと)という絶対的制約の中、日本の鉄道技術は不断の努力によって狭軌で世界一になった」というテンプレート的な美談が伴い、多くの人はそれを“常識”として信じてきた。

ところが、世界の蒸気機関車の技術発達史を知る者は、C62 17の時速129kmが狭軌の世界記録ではないことや、線路幅そのものが決定的要因ではない事を知っている。たとえば、日本と同じ1067mm軌間の南アフリカでは、線路の路盤改良によって機関車重量の制限を緩和する事でボイラーと動輪の大型化に成功し(動輪径1829mm、日本は1750mmが最大)、さらにバルブギアなどを改良する事で高回転を可能にした16E形が1935年に登場し、定期運行の特急を時速70マイル(113km)で走らせ、非公式には内部規則を破る時速140kmを超えた運転もあったという。一方、同じ1067mm軌間ながら日本よりも車両建築限界の制限が大きいニュージーランドでは、動輪径を1372mmに抑えてボイラーを大きくとり、ローラーベアリングを採用する事で高回転を実現したKa型が1939年に登場し、運転時速120km、最高時速137kmに達している。オランダ植民地時代のインドネシア国鉄も1067mm軌間だが、日本のC51形と同時期に導入されたオランダ製の4気筒型機関車1000形(のちの日本植民地時代にC53形と改称)で、平均時速が特急「燕」より速い最高時速120kmの定期列車を実現している。
つまり、制約は線路幅ではなく、機関車重量を支える路盤や線形の土木技術や、ボイラーと動輪径のバランスや、車軸の高回転を生み出せる機械技術のほうにあったのだ。それは当時の国鉄工作局も知っていたはず(島秀雄とのちに国鉄総裁として非業の死を遂げる下山貞則は、1937年に南アに視察に行っている)だが、日本の蒸気機関車は1919年のC51形から1948年のC62形まで、足回りの設計は驚く程変化がなく、バルブギアやベアリングも基本的に前例を踏襲するばかりだった。C62 17の時速129kmは世界記録ではなく、「脆弱な路盤を根本的に改良出来ない技術力や資金力、前例踏襲という枠を超えられない国鉄の技術陣」という日本の事情に最適化された蒸気機関車による「日本記録」なのだ。
我々鉄道ファンは、1913年設計の9600形蒸気機関車が1926年までの13年もの間、ほとんど設計変更のないまま実に784両も製造され、1976年に国鉄最後の蒸気機関車として運転を終えたことも知っている。大正時代に設計された機関車が大した改良もされずに60年以上も重宝がられたのは、日本の蒸気機関車の技術が当時の鉄道システムに最適化された1913年時点でほぼ進化を止めたからであり、その間、在来線の輸送システム自体も、機関車に新しい設計を要求する程には進化しなかった事を示唆しているのではないか。

これは、現在の新幹線や今流行りの探査機「はやぶさ」(打ち上げられたのは2003年で、技術的には過去の遺物)にも通じる問題だろう。新幹線は運行システムとしては世界一かもしれないが、「速度」ではフランスのTGVに抜かれて久しく、定期列車では今や中国にも抜かれている。つまり、日本が誇るべきは「安全性」と「定時運行」「大量輸送」であり、「速度」ではないはずだ。そもそも、現在の日本の乗客が本当に望んでいるのは「世界一の速度」なのだろうか?「安全性」を犠牲にした「最高速度」を誇る何処かの国と競う事に、一体何のメリットが?

これから世界に類を見ないような少子高齢化が進むこの国において、乗客が望むのは「より早く目的地に着くこと」ではなく、「より快適な旅ができること」ではないのか。リニアモーターカーよりも、この2階建て新幹線の食堂車のような楽しい車両を復活させて、より快適で楽しい旅が出来ることのほうが、日本の鉄道の発展の方向性ではないのだろうか。
それにしても、同じくレコードホルダーの新幹線試験車やリニアモーターカーがC6217と並べてあるというのは、まるでどこかの国の為政者が偽りの武勇伝をでっちあげて出自の正統化を図ろうとしているようにも見える、と言ったら言い過ぎかも知れないが、少なくとも、何十年も前の右肩上がりの経済成長に最適化された社会システムにしがみつくあまり、現実に目をつぶって不適応を起こして行き詰まり、「一見、うまくいっているように見えた」過去へのノスタルジーに浸るばかりの日本社会を象徴しているように思える。

そんな鉄分の濃い話をまじえつつ、N先生と楽しい時間を過ごすことができた。さて、今度はどんな講義をしようかな。今から楽しみ楽しみ。
打ち合わせといっても、お互い「鉄分」と「アルコール濃度」が高いので、「リニア鉄道館」→「大岡屋はなれ」というコース。鉄道談義や酒談議をしながら、教育の話に花が咲いた。
これまでの教育や医療は、教育内容や医療知識といった「情報」を教員や医師が独占していたので、学生や患者に対して「テンプレート通りの対応」をしていれば、ほぼ間違いがなかった。大半の学生や患者も、テンプレート通りの対話によって当たり障りなく過ごすことを望んでおり、例外を外れる先生はかえって警戒されたり、疎まれた。それは「教育」や「医療」に名を借りた「ロールプレイ」に過ぎず、コミュニケーションとは程遠いものであり、そのことに我々は、大いに不満を感じていた。
ところが、情報ツールの急速な発達によって、「情報」はもはや教員や医師の独占物ではなくなった。学生や患者は、教員や医師と同等に「情報」にアクセスできるようになった。例えて言えば、「魚の釣り方」を教えるのに、これまでは先生が大きな魚を釣ってみせて、「ほら!こんな風にしたら釣れるぞ!お前もこれを真似してみろ!」と言ってテンプレートを示していればよかったのが、これからは、学生のほうが先生より大きな魚を釣ってきたり、「先生が知らない釣りの方法」を探してしてくることができるようになったのだ。
これまでのような「テンプレート通りの教育」に拘泥する先生は、それを脅威と感じ、「権威の失墜」を防ぐために、権威をカサにますます自分のやり方を押し付け、それについてこようとしない学生や患者を「理解力が劣化した」といって否定する。あるいは、慇懃無礼な「お客様扱い」によって、彼らの感じる疑問を表に出せない雰囲気を作る。
それは、これまでの教育や医療がテンプレートに沿った「ロールプレイ」に過ぎなかったことを、見事に顕著化するものだ。テンプレートの否定は、これまで気づいていながら解決を先送りにしてきたコミュニケーション不全の問題を赤裸々にしてしまい、当事者はそれと向き合うことになるのだ。
これからの教育や医療は、学生や患者の知識レベルに応じた疑問点を、教員や医師が一緒に考え、解決してゆくという仕事になる。つまり、ニセモノや毒魚を見抜く方法を教えつつ、簡単に釣れる魚とそうではない魚がいることや、自分の目的とする魚を決め、それをどうやって釣るのかを、学生や患者と一緒に考え、それが出来るようにサポートするのだ。それは、「コミュニケーション」そのものであり、「テンプレート教育」「テンプレート医療」よりも遥かに“やり甲斐”のある仕事だと私は思う。
そんなわけで、私と一回りも年が違う先生を出来る限り支援したいし、彼がのびのびと教育と打ち込めるといいなぁと思うのだ。
ちなみに、リニア鉄道館にはC62 17がいる。17号機は1954(昭和29)年の木曽川橋梁強度試験の際、単機(列車を引かず、単独で走行すること)で時速129kmを記録し、日本ではこれが「狭軌の鉄道の蒸気機関車の世界記録」とされている。そこには「狭軌(線路幅が世界標準の1435mmよりも狭いこと)という絶対的制約の中、日本の鉄道技術は不断の努力によって狭軌で世界一になった」というテンプレート的な美談が伴い、多くの人はそれを“常識”として信じてきた。
ところが、世界の蒸気機関車の技術発達史を知る者は、C62 17の時速129kmが狭軌の世界記録ではないことや、線路幅そのものが決定的要因ではない事を知っている。たとえば、日本と同じ1067mm軌間の南アフリカでは、線路の路盤改良によって機関車重量の制限を緩和する事でボイラーと動輪の大型化に成功し(動輪径1829mm、日本は1750mmが最大)、さらにバルブギアなどを改良する事で高回転を可能にした16E形が1935年に登場し、定期運行の特急を時速70マイル(113km)で走らせ、非公式には内部規則を破る時速140kmを超えた運転もあったという。一方、同じ1067mm軌間ながら日本よりも車両建築限界の制限が大きいニュージーランドでは、動輪径を1372mmに抑えてボイラーを大きくとり、ローラーベアリングを採用する事で高回転を実現したKa型が1939年に登場し、運転時速120km、最高時速137kmに達している。オランダ植民地時代のインドネシア国鉄も1067mm軌間だが、日本のC51形と同時期に導入されたオランダ製の4気筒型機関車1000形(のちの日本植民地時代にC53形と改称)で、平均時速が特急「燕」より速い最高時速120kmの定期列車を実現している。
つまり、制約は線路幅ではなく、機関車重量を支える路盤や線形の土木技術や、ボイラーと動輪径のバランスや、車軸の高回転を生み出せる機械技術のほうにあったのだ。それは当時の国鉄工作局も知っていたはず(島秀雄とのちに国鉄総裁として非業の死を遂げる下山貞則は、1937年に南アに視察に行っている)だが、日本の蒸気機関車は1919年のC51形から1948年のC62形まで、足回りの設計は驚く程変化がなく、バルブギアやベアリングも基本的に前例を踏襲するばかりだった。C62 17の時速129kmは世界記録ではなく、「脆弱な路盤を根本的に改良出来ない技術力や資金力、前例踏襲という枠を超えられない国鉄の技術陣」という日本の事情に最適化された蒸気機関車による「日本記録」なのだ。
我々鉄道ファンは、1913年設計の9600形蒸気機関車が1926年までの13年もの間、ほとんど設計変更のないまま実に784両も製造され、1976年に国鉄最後の蒸気機関車として運転を終えたことも知っている。大正時代に設計された機関車が大した改良もされずに60年以上も重宝がられたのは、日本の蒸気機関車の技術が当時の鉄道システムに最適化された1913年時点でほぼ進化を止めたからであり、その間、在来線の輸送システム自体も、機関車に新しい設計を要求する程には進化しなかった事を示唆しているのではないか。
これは、現在の新幹線や今流行りの探査機「はやぶさ」(打ち上げられたのは2003年で、技術的には過去の遺物)にも通じる問題だろう。新幹線は運行システムとしては世界一かもしれないが、「速度」ではフランスのTGVに抜かれて久しく、定期列車では今や中国にも抜かれている。つまり、日本が誇るべきは「安全性」と「定時運行」「大量輸送」であり、「速度」ではないはずだ。そもそも、現在の日本の乗客が本当に望んでいるのは「世界一の速度」なのだろうか?「安全性」を犠牲にした「最高速度」を誇る何処かの国と競う事に、一体何のメリットが?
これから世界に類を見ないような少子高齢化が進むこの国において、乗客が望むのは「より早く目的地に着くこと」ではなく、「より快適な旅ができること」ではないのか。リニアモーターカーよりも、この2階建て新幹線の食堂車のような楽しい車両を復活させて、より快適で楽しい旅が出来ることのほうが、日本の鉄道の発展の方向性ではないのだろうか。
それにしても、同じくレコードホルダーの新幹線試験車やリニアモーターカーがC6217と並べてあるというのは、まるでどこかの国の為政者が偽りの武勇伝をでっちあげて出自の正統化を図ろうとしているようにも見える、と言ったら言い過ぎかも知れないが、少なくとも、何十年も前の右肩上がりの経済成長に最適化された社会システムにしがみつくあまり、現実に目をつぶって不適応を起こして行き詰まり、「一見、うまくいっているように見えた」過去へのノスタルジーに浸るばかりの日本社会を象徴しているように思える。
そんな鉄分の濃い話をまじえつつ、N先生と楽しい時間を過ごすことができた。さて、今度はどんな講義をしようかな。今から楽しみ楽しみ。






